秋の深まりとともに北から南へ、冬から春は北へと移動する季節回遊魚。目が澄んで輝き、体に青紫の光のあるものが新鮮。腹がしっかりしており、身のそり返ったものを選ぶ。尾の付け根や口の先が黄色いものは「大漁さんま」と称して、脂がのっていておいしい。脂がのった新鮮なものはなんといっても塩焼きが一番。
熊野灘でとれたサンマを使ってつくる「姿ずし」もたいへん美味。こちらは脂がのっていないものの方があう。背開きし、塩つけしたサンマを水洗いし、みかん酢につける。すし御飯の上に尾、頭のついたままのせる。地元では保存食として用いられている。
熊野灘でとれたサンマを使ってつくる「姿ずし」。脂がのっていないものの方が美味。サンマは、まず背開きし、塩つけしておく。後は水洗いし、みかん酢につけ、すし御飯の上に尾、頭のついたままのせる。地元では保存食として用いられている。
ヒッチャマエル(つかまえる)
(例)ドコソイッテ、ヒッチャマエテコイ
どこかで、つかまえてこい
11月12日に家内安全・交通安全を祈祷するため、柴灯大護摩とともに行われる秘法。
ここは、薬師霊湯といわれ、平将国・由井正雪も病を治したと伝えられる隠れた名湯の有久寺温泉。ラジウムの含有量は、冷泉では日本一を誇る。
樗良は天明時代に活躍した郷土の俳人。毎年、三浦樗良の命日にあたる11月16日前後に三浦樗良顕彰俳句大会が盛大に行われている。昭和33年中州の忠霊塔境内に建立された顕彰句碑には、樗良の代表句「嵐吹く…」が誓子の筆で刻まれている。
11月3日頃の数日間、絵画や写真、盆栽など町民が製作した作品を展示。日頃の成果を発表する場づくりと、さらに文化の輪を広げることを目的として開催されている。
母子くじらの話
むかし、奥熊野の入り江に白浦という小さな漁村があった。海に面した白浦は、昔から漁業が盛んで大勢の漁師たちが住んでいた。そのころの村は、くじらを捕って豊かな暮らしをしていた。くじらがどっさり捕れたときは、村中の人が出てくじらをさばいた。それでも人手が足りないと、隣村から人を頼んでいたという。
ところが、ある年、沖から白浦湾は入ってくるくじらが一頭も姿を見せず、まったく捕れなくなった。漁師たちは、かわるがわる海岸に出て、くじらを待った。しかし、とうとうくじらはあらわれなかった。
ある日の夜、常林寺の和尚さんのまくら元に、たいへん美しい女の人が現れ、「和尚さん、和尚さん。あした、わたしは子を産むために南の海へいきます。前の海を通りますが、どうか、私を捕らないで見逃してくださるよう、村のみなさんに頼んでください。お願いします。」といって消えていった。
あくる朝、和尚さんは、夢の中にあらわれた女の人は母くじらだと思い、「これは大変なことじゃ、早く知らせよう」と、くじら舟の網元や漁師たちの家いえへ出かけたが、もうみんな沖へ漁に出たあとだった。
そのころ、何隻かの小舟に分かれて乗った漁師たちは、くじらがいないか必死になって捜していた。一人の漁師が、潮を吹きながら湾の近くへ向かってくるくじらを見つけた。みんなはいっせいにくじらが泳いでいる方向へこぎ出し、やっとのことでたどりついた。そして、くじらを舟で取り囲み、くじらから二、三十メートルほど離れたところから、何本ものもりを打った。ハザシといわれている漁師が、くじらの弱ったのを見て海中に飛び込み、くじらに近づいて刀で刺す。それから、ちょうどよいときをうかがってくじらの鼻を切り開き、これに網を通す。次に背びれを切り通して綱をかけ、腹の下をくぐって締めくくる。そんな手はずでくじらを捕って、久しぶりの大漁に喜びながら、舟が帰ってきた。
大きなくじらが捕れたことで、村人たちはたくさん集まり、浜はにぎやかになった。さっそくくじらを浜へあげ、男たちがさばき始めると、和尚さんが夢で見たとおり、おなかの中に子くじらが入っていた。
それから、この村では、病気になる人が次々と出た。また、海が荒れてさらわれ、多くの人が亡くなった。そこで、村人たちは、母子くじらの霊を慰めるため、白浦の入口の丘に立派な墓をつくり、手厚く弔った。それからは、悪いできごとが起こらなくなったという。
母子くじらの墓“腹子持鯨菩提之塔”は、今も白浦の入口の海の見える丘に建っており、白浦の人たちによって大切に守られている。